ダイバーシティというのは一言でいうと『多様性』である
それは性別、人種、能力、思想など、あらゆるものに対して言える言葉である
つまり『ダイバーシティの高い社会』とはより多様性の許容に満ちた社会を指す
今まで『障害者』と括られていた人たちもダイバーシティという見方をするとよりダイバーシティの高い人たちという見方になる

主にこういった社会的な文脈で語られるダイバーシティであるが、それは個人の精神的なものに当てはめられるものだと思う
例えば、ポジティブな精神状態とネガティブな精神状態のどちらが自分にとって好ましい精神状態かを考えたらポジティブな精神状態を保ちたいとより多くの人は考えるはずである
社会的にみてもネガティブな精神状態は『鬱』などのレッテルを貼りやすく、貼られやすくなっている
しかし本当にネガティブな状態は好ましくない状態なのであろうか?
そして常にポジティブであることはダイバーシティの低い状態ではないだろうか
わかりやすく『喜、怒、哀、楽』で感情をカテゴライズして『喜、楽』はポジティブ、『怒、哀』はネガティブとすることとしよう
あるデザイナーとどういった精神状態の時に創作意欲が生まれるか、という話をしたとき、私は『怒り』であり彼女は『哀しみ』であった
もちろん『喜、楽』のときに創作意欲が湧くという方もいるだろう

ここで大事なのは『どっちの状態がいいか』ではなく『どっちにもいい部分がある』ということを知ることである
例えば鬱のような状態、誰にも会いたくない、何もしたくない、そんな無気力、自暴自棄な精神状態の時間はとても苦しい時間だが、より自分の内面と向き合える時間となり得る場合もある
そしてそういった自分と対話できる時間がその後の人生で大きな武器になるかもしれない
例えば、常に楽しくて何ごともポジティブに向き合える状態
そんときほど小さな変化や機微を見過ごして大きな過ちをしてしまうかもしれない
そのようにまずは自分の多様性と向き合うことで新しい側面が見えることもある
精神的なポジティブとネガティブ、漢字にすれば『陽と陰』になると思うが、ボクはそれを正に電池の陽極、陰極、つまり+と-と同じものだと考える
+な精神状態、-な精神状態というと誤解を感じがちだが、電池の±を+はいいが-は嫌いだなんて思っている人は極めて少ないと思し、どちらも正常に働いているからこそ電池は機能する
それと同じように精神状態の±、つまりポジティブ、ネガティブもただ違うポジションをとっているだけであって、そこに良し悪しを感じる必要はない
むしろ片方だけではあなたは成立しないのだ

ダイバーシティ高い社会は『同じ』や『普通』を強要すると崩壊する そうではなくそれぞれのダイバーシティを許容しよりそれぞれに寄り添うことのできる多様性を社会システム自体が持たなくてはいけない
精神的なダイバーシティも同じで、大切なのはより自分の精神のダイバーシティを許容することである
ネガティブだからポジティブになろう、ポジティブだからネガティブになろうなど無理な圧力を自分にかけることなく、その時々の精神状態を認めそれにあった時間を過ごすことが大切なのではないだろうか
ボクは決してそういった生き方が楽だとか苦しくないとは言わない
多様性を認めることでより苦しいこともあるだろう
ただ変な圧力でネジ曲がった方向に苦しいより、面と向かって苦しい方が幾分マシなのかもしれない
ダイバーシティの高い社会というも同じであろう
差別とか偏見とか固定観念とか、そういった捻れを解消して一つ一つとフラットに面と向かっていこうということなのだろう
安寧の世などはないかもしれない
ただ我々は考え続けることができるだけだ