意味がわからない、読みにくい
と、日本人に特に大好評な我らがメニューだが、ボクはさらさら変える気もなくもっとギリギリを攻める気でいる
こんな読みにくいさを追求したようなメニューにする理由は『選ぶ』ということへのボクの違和感がある
ボクらは本当に『選んでる』のか、疑問だ
コンビニでランチに20種類のおにぎりのなかからおかかを買うことは『選んだ』ことではなく『選ばされた』ことなんじゃないのだろうか
ボクは『選ぶ』という行為の本質は『選択』でなく『想像』であるべきだと思っている
『選択の対象の観察』→『そのもの自体及びにそのものを選ぶことによって待ち受ける未来の想像』→『選択』
という一連が『選ぶ』という行為であり、そのなかでもっとも脳細胞を使うはずの、『そのもの自体及びにそのものを選ぶことによって待ち受ける未来の想像』が今の『選ぶ』には欠如している気がする
まず懇切丁寧なパッケージングによって『そのもの自体を想像する』機会が奪われ、ほとんど商品が均一、定番化していることによって『そのものを選ぶことによって待ち受ける未来』の想像の幅もかなり絞られている
それは『わかりやすさ』であるが、無粋言い方をすると
『頭を使わずに選べる』
という環境が整いすぎているといえる
もちろんそのこと自体は効率的で歓迎できる市場原理である
問題は『わりやすさ』が蔓延しすぎていること、それに飼いならされていることにある
これはすでにウェブ広告に個人の趣向傾向が個別に反映されていることからも今後より顕著になっていくであろう
それは想像通り、期待通りのもの選択できる可能性が上がるということであり歓迎されるべき流れでもある
ただボクは思う
想像通りのものが手に入るだけで楽しいのか
想像だにしなかったものに出会ったとき、
全く期待とは違ったけどそこに新しい出会いがあったとき、
その出会いこそが自分の人生の価値観をジャンプさせるのではないだろうか
ボクは安易な選択などとさせない
『わかりやすさ』などクソくらえだ
その先に人生を輝かせるドキドキがあると信じてる